天河神社と、細野晴臣。

hinata
2022年10月15日

 

「奉納演奏」が始まる数時間前…

私は天河村の緑深い気配に包まれながら、露天風呂に浸かり山に雨が降るのを眺めていた。

お湯が溝に吸い込まれてゴボリゴボリと流れていく音や、屋根から落ちる雨がポタポタと不規則に連打している音に耳を澄ましていると、世界に流れている音はもうそれだけで完璧なのだと深々と思い知らされた。

それはあまりにも美しくそこに存在していた。

 

天河神社から程近い温泉の露天風呂。奉納演奏のリハーサル音が時折かすかに聞こえてきては、流れる自然音に人の波動が重なっていく。それは2種類の異物が同時に存在しながらも、組み合わさろうかどうしようかと、くっついたり離れたりしているかのようだった。

 

ふと思った。

もし人間が自然音に音を継ぎ足して「音楽」を作るのならば、完全に子どものような心で一緒に遊ばないと音はそこに添わずに浮いてしまうだろう。少しでも「考え」たり「判断」したりすると自然の音には添わない。それはきっと波動が違うからだろう、聞いていてすぐバレてしまう。

 

細野さんがこの日「最近音楽を作れない」のだと言っていたのはよく分かる。音楽を作るということ自体が既に違和感あるものなのだから。音楽とは、この世界に鳴っている音と絡まったり寄り添ったりして「遊ぶ」ものだから。

自然音がそれそのもので既に完璧だと気づいたら、そこに完全同調してしまうか、もしくは子どものように音と遊ぶことしかできない。

 

技術のあるスタジオミュージシャン達と一緒にずっと音楽をやり続けてきたという細野さん。音の本質に気づいている細野さんからしてみると、「考え」「判断する」ような音づくりはそろそろ違和感でしかないのかも知れない。

最近は、素人さんであるお孫さんとの音作りが面白いとおっしゃっていた細野さんが彼らと一緒にアルバム作りを始めたのも、音の本質をそこに見出したからなのだろう。

この日も一緒に奉納演奏に参加されていたのも意味深い。お孫さんだけの音はまだちゃんと聞いたことがないけれど、きっと子供心のような純粋さと楽しみ方で音と遊んでいるのだろうなと思う。

 

そしてこの日の奉納演奏。

34年ぶりの天河神社での奉納演奏ということで珍しく緊張していたという細野さん。

過去にブライアンイーノが天河神社で作ったという楽器で細野さんが演奏中コツンと頭を打った時、神様が「緊張しないでもっと遊べ、マインドから解放されよ」と、合図をしたかのようにも感じられた。

 

最後の方でギターを弾きながら細野さんは、その日の演奏の一部を「サービス」だと言っていたけど、言わんとしていることはよく分かった。

神様への奉納演奏と観客に対する音楽演奏は全く違うのだろう、意識も音の在り方も。

だけど天河の神様はとても自由なので、この時、舞台に一陣の風を送って舞台に張られた紙垂(しで)を揺らし、灯篭を揺らしながら踊っていらっしゃった。

 

天河の神様は、自由なものを歓迎している感があるように思う。というか、受容力が半端ない。

ミキノスケ大宮司がご神事の時に楽器を演奏されているのを見たことがあるけど、型にハマらずとても自由で子どものようだった。ああ、まさに天河だなと思って嬉しくなったことがある。

大宮司さんは心と身体全体で天河の神様の波動とピタリ添われている。

 

多くのミュージシャンが最近、音楽を作れなかった理由をもうひとつ。

コロナ禍で、心が疲れ切っている。エネルギーも足りない。ものを創造するには、地面の底からやってくるような芯のあるどっしりしたエネルギーが必要なのだけど、それを感じられるようなシーンに出会えない。祭りもすべて閉ざされていた。

魂が震えるような体験が封印されてしまっていたからだろう、大いなる創造力はまずそういった所からもやってくるのに。

 

先日、「銀鏡神楽」を取り上げ描いている映画を見た。

宮崎では実に200を超える神楽があり、その多くは各地の神社や公民館で一晩中舞い続けられ、朝までそれは続くという。

神が宿る面をかぶり、身を神に預け型のままに舞う神楽。その物語は遥かかなた神話の世界に留まらず、生死感や宇宙の星々たちの物語までを彷彿させている。

やはり、こういうものが人間には必要なのだ。それは踊りであってそれ以上のもの。その土地で生きていく上で、その人たちの生き方全てに関わってくるようなもの。

今年の冬、銀鏡に夜神楽を見に行こうと思っている。そこで魂を振るわすエネルギーをいただくのだ、これからの世界をしっかりと生きぬいていくためにも。

 

私は昔あんなに音楽が好きで仕方がなかったのに、いつの間にか音楽をほとんど聴かないような生活を送るようになっていた。

田舎暮らしで静かに自然の音が聴けるようになったそのタイミングで、どこかで無意識に自然音の完璧さに気づいてしまっていたのだと、今となってはそう思う。音楽をかけて聴きたいという欲求がほぼなくなってしまった。

だけど今回、何か大きな変わり目のように感じて天河まで行ってみた。きっと変わるのだろう、これからの音楽も含め、クリエイティブというものの在り方全体が。

だから、細野晴臣のような大物が天河神社にそろそろ行かなければとソワソワし始め、34年を経たそのタイミングで再び神様に呼ばれて遥々天河神社までやって来たのだろうから。

 

クリエイトをお役目とする人達は、これからはもっと全力で遊んでいくことになる。それも、楽しすぎてご飯を食べ忘れたり、眠るのを削ってでも没頭して遊んでしまう子供のように。

そしてクリエイトの道にいる人々はより型にはまらぬアートで本質的なものを体現し、自身を含め、多くの人たちの五感をパカリと開く作業をしていくのだ。

目・耳・鼻・口・皮膚の5つの器官で感じる視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚。それらをしっかりと開くと、心の中にある天の岩戸もクリエイトの力によって開くことができるのかも知れない。それは私たちが自らの神性を、自らの心の神棚に取り戻していく作業に他ならない。

 

ブライアンイーノが、今は音楽作りよりも調香に興味があるという話も凄く分かる。

私が鬱になった時、どんな音楽を聞いても私の感情は戻ってこなかった。だけど、ふと花の香りや果物の香りを嗅いだ時、突然と幸福感にふわり包み込まれたという経験がある。その時、香りというものの本質を知った。五感を開くことで命は本来の輝きを取り戻す。

 

一年間の中にある季節の流れ、時の節目などにもそれぞれの意味やエネルギーがある。

私はここ何年かのテーマとして、冬至の日に冬至の歌「暁のオモロ」をうたっている。沖縄に古くから伝わる太陽を讃える歌だ。私は誰のために歌うのでもなく太陽が要求してくるからという理由のみ、この日歌う。

冬至の太陽が昇る時、それは生きとし生けるもの全ての命の復活を意味している。その時、歌とセットになるのが舞。そこに更に足りないものを継ぎ足して、冬至に五感を開く祭りを皆んなでできたらいいなと、今思った。

 

全ての人が輪廻を恐れないで受け入れるためにも。そしていつかは永遠の死に向かう準備が整い、生からをもすんなりと解脱されるためにも。

それまではただひたすら、創造の波乗りをしながらおもいきり遊ぶのみ。カンナガラタマチハエマセ。